2018年11月17日土曜日

聖徳太子の呼称 正しい呼び方はどれか

聖徳太子の呼称にはいくつかありますが、現状、聖徳太子という呼び方が教育の現場では劣勢になってきているようです。

歴史的に正しい、真理であるというのならそれは尊重して改めていくべきことなのですが、はたしてどれが”正しい”のか。そして呼称の変更にどのような意味が出てくるのか。
なぜ聖徳ではいけないか。厩戸王がいかに正しいか・・・と調べてみましたが、その結果を。

私としては自分がなじんだ呼称であり、歴史的なインパクトといった面からも聖徳太子を推したいところなのですが、しかし調べれば調べるほどに聖徳太子という呼称にも問題があることもわかってきました。そしてそれはほかの呼称にも言えることでした。


それぞれ
・聖徳太子・・・諡号であり、生前誰も呼ばなかった呼称
・厩戸皇子・・・日本書紀に記された"ありえない"呼称
・厩戸王・・・・歴史学者により、彼の自説のなかで、当時の時代背景を考慮して創造された名前


問題点の側だけ見せるとこういう感じ。

以下、それぞれの問題点を詳しく。
聖徳太子についての問題点にももちろん触れますが、そちらはもう語りつくされているので後で。
どの呼称も問題ありという立場から、記事の中ではここまでも、そしてここからも聖徳太子と呼び続けます。

・厩戸皇子
日本書紀に記されている由緒正しき聖徳太子の呼称。日本書紀には聖徳太子という呼称は一切登場しないのだとかで、かろうじて東宮聖徳という呼称なら出てくる程度とか?
歴史資料第一で考えればこの厩戸皇子以外ありえないというくらいなのですが、しかしこの呼称の問題として彼の生前の時代背景を考慮するとそれはそれでありえないという結論になっているようです。
皇子というのは言うまでもなく天皇の子という意味になりますが、当時(推古の時代)は天皇という呼称はなかったと言われているようです。したがって皇子という呼称も存在していない。厩戸皇子という呼称もまた、日本書紀編纂時代に作られた呼称であり、当時(生前)の呼称としてはありえないということですね。

当時の彼らが”おうじさま”とか”みこ(御子)どの”などといったかたちで彼のことを(または彼の少年時代の呼称として)呼んでいた可能性はあると思われます。想像の範囲では。しかし、歴史の研究者がこの呼称にたいして忌避感・・・あるいはこの呼称を用いる学者に対してツッコミを入れに行こうとするスタンスをとることは想像に難くありません。要するに学者として研究をすればするほどこの呼称も認められなくなっていくのです。学者とは実に難儀な存在ですね。

厩戸王
厩戸皇子がだめならこの呼称。どこに出てくる呼称かというと小倉豊文という研究者の聖徳太子流芳録--「聖徳太子信仰」資料研究中間報告--」(『広島大学文学部紀要』22巻2号、昭和38年3月 (1953)のもの。太子の時代と比較すれば非常に最近のこと。

https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/9e060c54fb57993ea4c2faa81ff4b720

>私は厩戸王なる称呼が彼の生前の名であると思うが、その論証はここでは省略する

とある。
論証をすればある程度のそう”思う”根拠を示すことはできるのであろうけれど、それなりに長くなり、しかも反対意見も当然出るので、それほど論じる価値はないので、表立っては論じなかったのでしょう。

上記の”皇子という呼称が時代背景から考えて不適切”という点や、皇族の王というと長屋王(これもあとの時代の人ですが)など、王と呼称される例もあるのでそういう流れで、当時の彼の呼称もまた王だったのでは?くらいなら想像できる。聖徳太子の息子も山背大兄王という呼び名になっています。

というわけで、厩戸王という呼称は歴史学者による想像上の呼称なのです。
時代背景、歴史資料のミックスから創造された、彼の研究の結果として導き出される新たな可能性としての呼称。論争になったとして明確な否定もしづらく、追及されたときにも「これは自説ですから、ジャストアイデアなんで」みたいな言い訳の利く呼び方です。

当時の歴史を学んだ人なら、「なるほど可能性としては妥当なところではないでしょうか」と受け入れるのでしょうが、しかしこれを学校で事実として教えていいのか?しかも上のような経緯を一切省いた状態で。

私には学者が、学者らしい頑固さから従来の呼称に含まれる問題点を受け入れられず、また保身の立場から作った架空の呼称・・・という背景が強く見えます。
この呼称を最初に用いた方もまた個人的意見として講義録に入れている程度で、自著では触れていない部分もくみ取れば、教科書にのせるほどの根拠は何もないということになります。


・聖徳太子
ならやはり聖徳太子か?というとやはり問題も多いこの呼称。
正直、否定論の中に出てくる「諡号であるため不適当」というのもどうかと思うのだけど。
もはや聖徳太子と会話を交わした人物など生きてはいないわけで、彼は歴史上の人物なのです。死後に贈られた名で、皆で認識を共有できるこの名前で呼んで何が悪い?とも思います。

しかし良くも悪くも伝説的な名前となり、そのことに問題意識を持たないで呼び続けること、聖徳太子としての偉業を一切疑わないというのも問題かもしれない・・・というのもまた事実なわけもありまして。

・きわめて特殊な形である諡号としての”聖徳”
『逆説の日本史』などでは、”徳”がつく名前というのは崇徳天皇や文徳天皇、安徳天皇など、死後に怨霊とならないよう(恨みを鎮めるため)に崇(あが)めなければならない名前として付けられた、本人の徳の高さとは別の意味でつけられた名前ではないかと、ならば聖徳もまた怨霊となるような不遇な立場への申し訳なさからつけられた呼称ではないかと述べられています。逆説の日本史の中では、聖徳太子もまた”怨霊としておそれられる存在”である可能性に触れていました。

偉業を讃えているのではなく、彼の死後に残された人の側からの罪悪感による呼称ということです。こういう例として他の”徳”の字をもつ天皇にも同様の例があるとはいえ、やはり天皇の位につかなかった聖徳太子が”諡号”にこの立派な語を冠し、それが公称として定着しているのにはなんらかの意味があるのではないかと。そう考えれば、聖徳太子の諡号は”ほかの天皇にもみられる、偉人にはよくある例”ではなく、やはり彼だけが特別という部分が存在するのではないでしょうか。

これは、特別であるからして聖徳太子と呼ぶことに意味がある…という部分もありますし、また極めて例外的な呼称なのだからやはりその呼び方はどこかおかしいという考えも成り立つと思っています。

聖徳太子の偉業のほうも賛否あるようで、それらも含めて、いまでは聖徳太子という呼称には100%の気持ちで同意することができなくなってきているというのが、私の正直な感想です。


以下、長い長いおまけ。
たいていのページでは”聖徳太子で問題ない!”もしくは”聖徳太子の呼称は厩戸が正しい!聖徳という呼称は間違い!”とか、場合によっては”聖徳太子は実在しなかった可能性が高い!”なんて自説を推す部分が多いので、ここではあくまで私の推しであるところの聖徳太子という呼称の問題点も一緒に並べておきます。

・聖徳太子の大予言
聖徳太子が伝説化されていることは間違いなく、全部書いていったらそれこそ”未来予知”やら翼の生えた馬を見出し空を飛ぶこともできたとかそんなのまで。

ムー()より参考文献

聖徳太子の死後から武士の台頭までを記述し、それが太子の予言であったという内容らしいですが、読んだ人が「聖徳太子すげー!でも太子だからこんくらいやるかもな」と思わせる何かがあったのかもしれません。”兼ねて未然を知る”という、いわゆる1を聞いて10を知る的な評価を拡大解釈したのでしょうが。
この手の本は室町、江戸にもまた記述量を増やし、後々の世まで予言していたという新たな事実を追記しつつ大ヒットするらしいのですが、明治期に発禁とされたとか。

・肖像画に鬼の首を取った勢いで突っ込む人もいる件
肖像画については、近いものでは西郷隆盛がほぼ否定される根拠をもち、(弟と従妹をモデルに描いた)、周囲の人間からも似てねえと評判だったらしいことから否定に傾き切りました
そのほか、源頼朝も足利尊氏も違うとか。

肖像画が違っていたことは仕方がないのですが、それを彼が存在していなかった根拠のように扱っているのを見ると何か陰謀じみて見てみえてきます。

しかし、赤の他人を聖徳太子だと思ってありがたがるのは、今となってたしかに違和感を感じてしまいます。あの絵が誰なのかの検討は、今後も前向きに進めていってほしいところ。

・十七条の憲法 虚構説
17条の憲法がそもそも彼の作ではない、虚構であるという説もあります。
虚構とまではいかなくても、当時あったとしても、彼が個人的に考えてみた草案やら知人に紹介した役人の心構え的なスローガンくらいなものだったくらいなもので、当時の役人が全員従っていた・・・というほどでもないのは事実らしい。
文法や用語も当時にしてはおかしいとか。飛鳥時代の文法とかについては、もう私の手の及ぶ範囲ではないのですが、文法以外にも、律令の考え方に基づいてかかれたコレは、太子の時代には考えられなかったとか。(しかし、遣隋使が伝えた可能性はあるのでは?)

・遣隋使も賛否両論
遣隋使を派遣したことは隋の側にも記録が残っているため事実ではあるものの、隋書には日本の王とあり男を前提にかかれているため、推古天皇、その代理である聖徳太子が(天皇名義で)使節を派遣したことは疑問視される部分もあるようです。有名な、「日の出る処の天子…」が聖徳太子であるのか?というようなところが疑問。

隋書、魏志(倭人伝)やらに倭の国のことが書かれていますが、これらの書物は正史といい、あちらの歴史の正当性を誇る(または、次の王朝が記したもので、前の王朝が何を間違えて滅びたかの悪口)を記述するものであり、魏志倭人伝にも当時の日本として疑わしい記述が多数あるそうです。
布の真ん中に穴をあけたものを被る、貫頭衣という部分やら、顔と体に刺青やらが他の蛮族の記録と同様なものであるらしく、日本人の姿を見て書いたものか怪しいのだとか。
これらの記録は、日本人というものについて特別に作られた書物なわけではなく、自分たちの歴史のついでにその周辺であった出来事や民族をついでで書いた程度のもので、これも書物を作るにあたってかき集めた昔の記録の編集物である様子。

場合によっては、遣隋使のアマタシリヒコという王の名前は少しズレた時期の天皇の名前をどこかから拾ってきた・・・ということもないだろうか。
天皇にタリシヒコがいたはず・・・と思って調べてみたものの、伝説上、推古から400年以上前の第12代景行天皇が大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、第13代成務天皇が稚足彦天皇(わかたらしひこすめらみこと)であるそうだけれど、さすがに時代が違いすぎる。実際にいたのかも確認できない伝説の時代の存在です。さらには、これは本名というわけでもなく諡号だったようです。
推古の次の世代では第34代舒明天皇が息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)でもあるけど、当時7歳で、しかも皇位につく可能性は低そうな皇子だったとか。

・なぜ聖徳太子派が根強いか
私は聖徳太子を推したいのですが、聖徳太子派の根拠として、
・日の出ずる処の天子・・・が日中(倭隋)の関係を対等なものに押し上げようという大いなる挑戦であったこと。
・大宝律令制定に至る天皇中心の国家形成が、聖徳太子の十七条憲法に始まるということ

などではないでしょうか。
現在にいたるまで、チャイナなあの国は他国との関係に特殊な考えをもっていて、「”国”というものは世界に中国が存在するのみで、それ以外はすべて蛮族」という考えを持っています。日本のような他国が存在するためには、冊封と呼ばれる臣下の礼をとって朝貢し、”中国の配下、もしくは一部”という立場で認められるしかありません。
これを中華思想といいます。一種の陰謀論のようにも思っていましたが、最近は新聞などでもあの国の対外姿勢を説明する際、この用語が必要不可欠になってきているようです。

沖縄の所属問題なんていうものを真面目に論じている人がいますが、それは沖縄(旧琉球王国)が安全と貿易の実利を考えて清に冊封していたためにそういう考えが存在しています。
現実的にはそのような過去があったとしても「配下の立場をとった遠くの(別の)国。しかも過去の話」でしかないのですが、中華思想という彼ら独自の”文化”において、冊封関係にあった他国が今日本の一部であるという点には「本来自国の領土である琉球が日本に不当に奪われた」くらいな解釈がごく普通に成立します。
こういうのは文化の違いなので仕方がないです。問題は、日中の間でさえこういう”文化の違い”が存在することを押さえておかないと、話が通じなくなってしまうということです。
(外国との関係を考える際、日本側の常識だけで考えてしまうことは誤りということ)

こういう危険は年号や漢字を廃止したベトナムなどでも感じていることのようです。
日本は遣唐使の廃止、元の時代に届いた挨拶を求める手紙への返事を保留したこと(結果として元寇に至る)などには、唐や元が朝貢をどうとらえているのかという部分を敏感に感じ取って距離を取っている様子がうかがえます。足利義満も明と貿易するためには”日本国王”となる必要があったり?また国学者として有名な本居宣長は天皇家の祖先と思われる卑弥呼が魏に”朝貢”したと考えられる記述を嫌ってやまとを”ヤマタイ”と誤読したなんて説を見たこともあります。

このように、海を挟んだ向こうに存在する超大国に対し、独立、対等の関係を築こうという努力が日本の歴史ではずっと続けられてきています。その始まりが聖徳太子だったのです!という点で考えると、聖徳太子は実際にかなり大きな一歩を踏んだ人物だったと考えられます。
(しかしこれも聖徳太子ひとりの実績ではなく蘇我氏の発案だったかもしれないし、この手紙を運んだ小野妹子は隋の皇帝の返事の手紙を盗まれて紛失しています。何が書いてあったやら)


もうひとつ、十七条憲法や冠位十二階のことですが、こちらはそれ単体ではどこまで意味があったのやらわかりません。スローガンを決めて盛り上がったり、職場で特定のユニフォームを着て団結を高めたりって程度でしかなかった可能性もあります。

しかしこの後、天皇中心の国家が成立する流れを描く場合、卵が先か鶏が先か、日本書紀で過去に遡って聖徳太子の実績を”創り出した”のだとして、最初は一つの神社の神主程度でしかなかったかもしれない天皇を、蘇我氏の政治的、武力的、財力的な支援なしには成り立たなかったかもしれない小さな神社を国の中心に据えて、権力を1か所にあつめた、隋のような大国にも侵略されないような国に育て上げようという努力の積み重ねが結実したという流れになります。
その流れを後になって振り返ると、律令の整備、中心に立つべき人物像、その理想の実現のための障害の排除・・・と考えていくと、その流れの起点として、聖徳太子は実に見事な位置に、実に理想的な人物として存在している感はあります。
(ちょっとした勘ぐりとしては、天皇中心の国家の始まりは中大兄皇子による暗殺による権力奪取となってしまうと見ために悪く、権力の正当性が薄れるので、その部分をよく見せるために聖徳太子を起点として”作り出した”のかもしれません。)

中央集権国家を作るのは、よほど権力欲のある人であるか、外敵がいてそれから身を守るために強くなるか(または強くなる決断をした国だけが、歴史の必然としてその後支配者となっていく)なのでしょうが、そのような見方から侵略を受ける前に強くなったのか、あるいは侵略をして日本すべてを天皇のものにしたと言えるのか・・・

日本が聖徳太子以前のまま天皇をゆるく崇拝するだけの、蘇我氏など豪族がそれぞれ勝手に支配する、もとのぬるま湯の中にあり続けたのだとしても、それはそれで幸せだったのかもしれません。しかし外国からの侵略が起これば、そのような国では団結して対処できず、日本の歴史は終わっていた・・・少なくとも今とは歴史は変わっていたことでしょう。

近年、日本では現金による支払から抜け出せない、発展性がない国だと思っている外国人もいるようです。
日本ではいまだ現金志向が強く、安全面から小切手やクレジットカードが発達したアメリカや、紙幣の信頼性(偽札問題)から電子化が発達したチャイナのようにもならず・・・それはつまり現金から離れる必要がないということで、それはむしろいいことなのだと思います。暗算にも強いし。

何はともあれ、この時期の転換期のまま、平安時代の摂関政治、その後の武士による幕府の設置などややズレはあるものの、聖徳太子が望んだ国家の形はいまだ崩れていません。
聖徳太子が志向した中央集権国家への転換は、まさに”兼ねて未然を知る”ことから生まれたものだったとさえ思えてきます。

結論として、聖徳太子の通称として教育現場(≠学者の研究の場)で教える名前としては聖徳太子が一番いいと思っています。
太子っていう称号は朝鮮系渡来人からの呼称であるとかの指摘もあります。どうしても気になる人は東宮聖徳あたりを推してみては?
話の流れ的にどの呼称が適しているかみたいなものは論じていませんが、代替案2つが意外に大したものではなかったということさえ伝わっていれば私はそれでいいです。あとは子供たちに何を教えるかなのですが…正直、学者先生の意地の張り合いを学校教育に持ち込むものでもないでしょう。

学校で教えていくにあたり、時間があるのなら、呼称をめぐる論争(それぞれの呼称の根拠がどれも薄弱である点)のことやら、太子の事業の大きさや、また歴史が彼の架空の姿を必要として理由などについて触れてもいいのでは?くらい。キリストに由来するのかも・・・?なんてことよりも17条憲法からの大宝律令までの流れを整備して伝えることのほうが重要ではないでしょうか。

少なくとも、今の教え方だと、否定的な部分が強く出されすぎだと思うので。
「聖徳太子って呼ばれてきたけど実は・・・」
「こういう肖像画があるけど実は・・・」
「こういう実績があると言われているけど実は・・・」

すでに聖徳太子を知っている側からすれば説明したくなるネタであるのは事実なんですが、最初に教えられることがこんな否定的な言葉ばかりになってしまう側のことも考えてあげてはどうか。