2009年11月1日日曜日

wikipedia編集方針の功罪(独自研究)

多くの人の手による、比較的新しい言葉に対する情報源として、かなり有用な場所であると思います。

しかし、教えてgooでは「ただ単にwikipediaへのリンクを張るだけ」という回答の仕方は悪い例の一つなのだそうです。 確かそんな解説を見かけた気がする。

それの理由として、「もうちょっと詳しい説明をしてやれ」ということなのか、「単純にネットを検索して出てくるような情報じゃ足りないから質問しているはずだ」というものがあるのかもしれません。
しかし後者のほうは、今一つ当てはまらない気がします。ときどき、「ネットで検索すればすぐにわかるような質問」をしている例を見かけることもあるので。

そのほか、wikipediaが「素人にも簡単に編集できるページだから」という部分から、記事の妥当性を疑って毛嫌いする人がいる部分もあるかもしれません。
多くの人の手によって洗練されていく可能性もある反面、素人があっさり書き換えて様々な誤りを含むページが出来上がっていることもあります。学術的な、専門関連の情報についてはそういった傾向が懸念される部分もあり、専門的な情報を調べた際の情報源が「wikipediaです」というのはかなり問題視されます。

図書館で資料を探せたり、その方面の商品を売り出している専門の会社などで詳しい説明を載せてくれていればいいのですが、そういう場所よりもwikipediaのほうが簡単に、詳しい(ように見える)情報があることもあります。時に、間違っているのかもしれませんが、専門家が暇なときにいじった部分がベースになっている可能性もあります。


以前、先輩に「お前はwikipediaを結構頻繁に更新していそうな奴だ」と言われたことがありました。雑学好きな部分が評価されたのかと一応ほめ言葉と受け取っておきました。私は当時wikipediaの編集アカウントを持っていませんでしたが。
しかし後日、別の友人との会話の中で、その先輩が「wikipediaなんて素人が書いてるだけの自己満足」と笑っていたことがあったのだそうです(その友人は、上記の私と先輩の会話を知らない)。先輩の中で、私はいったいどういった位置づけだったんでしょうね?


確かに、「何か公式な文書を作成する際の情報源」とかには不足があるとしても、とっさに調べたときに多くの情報が出てくるのは大変有意義であると思います。

しかし、このページにも多数の人の思惑が入り込んでしまいます。
個人的な意見を載せるには自分自身でサーバーを立てるなり、最近ではプロバイダのサイト用スペース、ブログなどが利用できるためいくらでも情報発信が可能ですが、それよりもさらに楽であるし、何より「多くの人に見られるページ」である可能性は個人サイトよりも(比較的には)高いはずで、そのページを見て記憶していく人の数も多いであろうことが予想されます。そのせいで、wikipediaは一種の情報の中心地であり、編集合戦なんてものになったりもするようですが……

wikipediaの記事の方針として、

・中立的な記事
・検証可能性
・独自研究は載せない


というものがあります。
これらは記事を書く上で重要な方針であると思います。

中立的な立場から書かれたものでなければ、信頼するに値しません。
歴史教科書についても、「勝者が残した一方的な言い分」という見方があり、実際本当なんだろうとも思いますが、可能な限り中立にたち、双方の言い分を認め、一部の立場の人々の意見が弾圧されないようにすることは大切だと思います。

検証可能性も当然必要です。
これは独自研究を乗せないこととかなり近い部分な気もしますが(一部では中立的立場にも通じる)、どこかの個人サイトにしか書いてなかった情報、過去の定説を否定するような、編集者個人の考えなんかを載せるべきスペースではありません。


……しかし、中立的立場というのが難しいというか、時に絶対的正義なんていうものがない歴史的事件などに対して、「あなたの記述は中立的立場から離れているから」と理由で消去、書き換えを行ったり、検証の元の「信頼できる情報源」というものが本当に信頼できるのか?といった問題はなかなかにあいまいになってきますし、独自研究と目される内容も、……こちらはたいがいにおいてそこまで重要な情報が個人サイトにだけ転がってるようなことはないんでしょうが、まあ、それらまとめて全消去な編集を行う人もいます。
ぱっと見ただけでは気になりませんが、wikipedia上の履歴のタブを眺めてみると、その1つのページにも様々な人の考え方が交錯していることが分かります。

例えば、巨人の助っ人外国人クロマティ氏のページを見てみると、

ウォーレン・クロマティ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3

……ないなあ。
ああいうのが消えちゃうのもいろいろと残念です。履歴から持ってきますと、

巨人ファンの間では、クロマティを『巨人史上最強の助っ人』と評価する者も少なくない[要出典]。2002年には、プロ野球マスターズリーグ札幌アンビシャスに加入。2005年には、アメリカ合衆国・アリゾナ州とカリフォルニア州を舞台にスタートするセミプロ野球のゴールデンベースボールリーグに参加する日本人限定チーム「ジャパン・サムライ・ベアーズ」初代監督に就任したが、同年素行不良にて解雇された。

スポーツ選手としての数字上の功績だけではない、最も大きな社会的功績としては、黒人に対するイメージを刷新したことが挙げられる[要出典]。彼が登場する以前は、日本における黒人の数が少なく、情報・理解不足からくる恐怖感から黒人に対する人種差別感情が強く残っていたが、彼がテレビに登場して陽気な雰囲気を振る舞ううち、黒人に対する文化的・社会的な人種差別感情は急激に薄らいでいったとされる[誰?]。

クロマティが日本で活躍した大きな要因の一つとして、環境の変化が挙げられる[誰?]。巨人入団前に彼が所属していたエクスポズのフランチャイズであるモントリオールは、白人の街(英語の通じないフランス語圏内)であったため、黒人である彼にとって非常に居心地の悪い環境であった。エクスポズでは暗いイメージだったクロマティが、巨人入団後に明るい性格になったと言われている[誰?]。



誰?というのは、つまり「誰が言った?そんなこと」というわけでしょうか。だってテレビで(ごにょごにょ)。
独自研究と判断されたか検証不可を理由に消されたのでしょうが、消去したのは名前から編集履歴をたどれるアカウントではなく、IPアドレスのみが記録された「どこの誰とも知れないだれかさんです。
もっと探れば、記事を書いた人のことや、その記事に要出典を貼り付けた人のこともわかるんでしょうが、まあいいです。

この情報の出典というのも、確かに検証が難しく、中立的立場からも離れているのかもしれないことになります。私もクロマティ選手のことは小学生にもならない子供のころから記憶していました。小学生のころなどでは、色黒な少年にそのあだ名がつくこともありました。悪いイメージではなかったですが、相互理解を助けるほどに清らかであったとは言えなかった部分が確かに存在しているはずです。

クロ高については、バースやデストラーデにも持ち掛けて訴訟を起こすかもしれなかったらしいですが、幕張は知られてないのかな?アニメにもなってないし。

バースやデストラーデは見送ってくれたらしいですが、これの情報も上のスポーツニッポン?ちょっと探しても見つからないんで、現在では検証不可のような気もしますよ?


と、余計なことは置いておいて、正直、上の要出典連発なんてバカジャネーノって感じではあります。一応、記事の妥当性を高めるのも重要なことだとは思います。完全に否定はできません。

これらの、削減に大きく力を注ぐ人たちのおかげで、日本のwikipediaは多くの記事において、洗練された情報のみに絞られ、別の言い方をすれば情報量が乏しいのだそうです。(要出典)


クロマティの記事を例に出典を考えてみれば、ずっと昔の週間ベースボール、新聞のインタビュー、当時の野球番組、当時からちょっと後の「あの人は今」みたいな番組や同様に野球番組とかでのOB訪問とか。
また、記事の内容から、人種差別を扱った番組などで、エピソードの1つとして登場していたかもしれません。いずれにせよ、検証は困難ではあると思います。

こういうことは、公共のページではなくとも、どこかの個人サイトにでもまとめて乗っけておいてくれれば、満足ではあるんですが。でもそういうマイナーなページだと、野球ファンなら巡回することもあるかもしれないものの、私あたりでは見る機会がないかもしれないです。それも少し残念ではあります。仮にあったとしても、そこでも、編集方針やら管理人の意向やらでいろいろ増えたり消されたりするんでしょうが。


これらの情報を削除することを厭わない人の方針としては、
「wikipedia編集方針の3つにしたがっての編集を行っています。意見の異なる人がいることは重々承知しています」とか書かれてたりしています。なんともご苦労様な感じです。

中立的といって主観を交えない人がいるものか。それが歴史的物品やら、本人のインタビュー入りの新聞記事とかで絶対的に正しいと誰から見ても分かる情報なのならばいいんですが、それ以外で絶対的に正しいことなんてそうはないでしょう。


新聞記事というのも、インタビュアー、記者、編集、出版社上層部など様々な人の思惑を経てかわるものですから、本当に信頼できるデータソースなんて、映像付きの音声による発表で、しかも生放送である必要もあるかもしれません。以前、タレントがテレビカメラに「うるせえ!」と一喝する場面がテレビで何度も放送され、後に記者のほうが失礼な質問を繰り返していたのに、その部分をほとんど断ち切って、1度だけ質問したことに対して怒鳴りつけたかのように見えるよう放送されていたこともありましたから(要出典)


ずっと昔に見た、面白い記述、エピソードなんていうものが失われてしまうことはよくあります。
面白いことが正しいわけではないんですが。

わたしはもうちょっと、色々載っているほうが好きです。要出典というのも、出典希望とかに言い換えませんかね。または、無駄知識重視の別のサイトが別にあればいいのかもしれません。 著作権、肖像権、名誉毀損にダイレクトにひっかかるようなものは駄目ですが、なるべく多くの情報や、誤解とそれがただの誤解であることをのっけておくような方針で。
トリビア(雑学)・エンサイクロペディア的な何か。ちょっとふざけたwikipediaというとアンサイクロペディアを思い浮かべますが、あそこまで行くと正しい情報が皆無なので、あれとも別である必要があります。


ところで、何かが正義であると確信した人間の行為というものは、少々止めづらいというか、正直なところウザいものですね。一応正論ではあるため、それを止める根拠となるところがなかなか見出せません。

根底ある「表現の自由」やら「公正な立場」やらといったもので押し切られるんですが、あれも一種の中二病のには違いないと言えましょう。

功罪ということで適当に文句をつけるだけつけて、建設的意見がうえの「出典明示希望」だけというのもさびしいですが、正直、どうしたものか。

中立的立場については、完全な中立なんてありえないことをwikipedia側でもう一度宣言したほうがいいかも。もう書いてあるかもしれないし、常識的に理解しておくべき部分なのでしょうが。
それでも中立的立場を信じる人がいる以上、この方針の文言をちょっと変えたほうがいいかもしれません。「可能な限り有用な、読者に誤解を与えない限りで最大源の情報」とかだと長すぎますか。「複数の意見に対して寛容な、中立的立場」とか?

現状では、決定しているのは強硬手段をとってしまう少数のラウドマイノリティであるかもしれません。
ウィキペディアン自体が、ネット世界ではラウドマイノリティである可能性も否定はできませんが、強硬手段をとる過激派な人はさらに一部だと思います。
多数決をとれば変わるかも……といっても、多数決というのも一種の必要悪です。
より真実に近い意見であっても、数の暴力によって押し切られることがあります。
本来、「お互い意見を近づけ合って、妥協案を出して、双方が利益を得て納得できる方法を全会一致で得るのが理想なんだけど、どんなに意見を近づけてもそこまでいくことは難しいため、最終手段として多数決で最大多数の最大幸福を目指す」というあたりが多数決の正しい使いどころです。
自分らの意見をゴリ押ししたり、いやな役柄を少数派や嫌われ者の誰かさんらに押し付けるために行うものではないのです。

検証可能についても、出典が信頼できるかは正直、本や新聞に載っていても微妙だとさえ思います。ましてや、ウェブニュースとかでも、読売とか産経とかの大手や、地方新聞誌のネット配信は信じられるとしても、それ以外のネットニュースだけのニュースサイトというのも、いろいろ記事内容は怪しい部分がある気がします。mixiで紹介されるニュース記事を見てると、よく感じる。(読者も多数問題視してるけど)
大手でも信じられない内容を世界に発信してたりする場所もありましたね。ビデオリサーチ社のアンケートで「あなたが信じられると思う情報メディアは何ですか?」とかあったことがあるんですが、新聞、雑誌、テレビ、ネット……とひとくくりにされるとどこにも○つけたくなくなりますよ。


独自研究は、このままでいいでしょう。本当に重要なら、ちゃんと広まっていくはずですから

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